家って、ええちゃね。
この番組は山口県の、
在宅医療提供体制構築事業の委託を受け、
宇部協立病院の提供でお届けします。
この番組では、
リスナーの皆様に、
在宅医療について、
知って頂く番組です。
介護、高齢者医療という言葉と、
同じように、
誰もが在宅医療という言葉を、
耳にしたことがあると思います。
在宅医療をご利用されている、
患者さん、家族、現場で、
患者さんに接している看護師さん、
お医者さんなどに、普段の様子を、
中心にお話していただきます。
どんな生活を、
送られているんでしょうか?
もし、リスナーさんの中にも、
医療、介護について不安に思っている方が、
いらっしゃいましたら、
メール、FAXでも質問を可能な限り、
受付ます。
もし、こちらでわからなければ、
持帰って先生方に聞いてみますので、
是非、お送りください。
メールは、
fm@kirara804.com
FAX番号は0836-35-1651
おはがきは、郵便番号755-0029
宇部市新天町1-2-36 FMきらら、まで
お願いします。
そして番組では、
毎月第2、第4木曜日にこの番組、
お送りしておりますけれど、
毎回違ったゲストの方、在宅医療を、
経験された方、
お越し頂いとりますが、
毎回、毎回、明るい方がいらっしゃて、
私も、助かっております。
お話が、お話だけにね、
ちょっと、暗くなったり、
悲しくなったり、するかなと、
思いきや、楽しくお話をされていまして、
前回来られた方はですね、
主人には悪いですけれど、
ちょっと、ホットしています。
話がありまして、
ちょっと私も不謹慎ながら、
笑ってしまったことがありました。
そして、
今日もまた、初めての方、
お越しいただいています。
服部誠さん、
はい
こんにちは、
こんにちは、
そして奥さまの、
服部典子です。
よろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。
服部さんは、お仕事は?
元々は?
元々は、転勤族で、
損害保険の仕事だったんですけど、
東京、名古屋、大阪、広島と、
転々としてまして、
あと、こちらに戻って来てからは、
特別養護老人ホームの、
事務ですけれど、
5年間勤務してましたね。
こちらに戻ってきた理由っていうのは?
種々の理由がありますけど、
理由の一つには、
父の脳梗塞の症状を呈して、
子供たちも都会よりは田舎が好き
ということで、
私自身もいい時期かなと、
思ったんで、20年という区切りで、
戻ってきたと。
いうことですかね。
医療とか、福祉の関係は、
全く素人だったんですかね。
素人だったんですね。
あのー僕自身が、
身障だった関係でですね、
二十歳のころも、55歳になったら、
戻ろうかなと、
その頃定年が、
55だったんで、
戻って福祉の世界に入ろうかな、
と思ってたんですけど、
40過ぎで、ちょっと早めに、
戻ってきたと。
じゃ
在宅医療とか、介護というのは、
ある程度の知識は・・・?
なかったですね。
なかったんですか?
事務系だったから・・・
こっち戻って来て、
社会福祉法人の事務やってた時には、
制度とか、学ばしてもらうのはありましたけど、
それまでは、一切わかりません。
そして、現在は、
途中ちょっと体調壊した関係も、
あるんですけれど、
2010年ぐらいから、
個人の経験資源をベースにした、
インターネット関連事業をしてます。
個人宅でですね。
去年の6月から、
宇部市の高齢者福祉計画審議委員を、
やったり、
それは何ですか?
難しそうですね。
宇部市が福祉の計画を立てる会がありまして、
そこに市民の応募とかあって、
いろんないきさつがあって、
6月からやってます。
それと、もうひとつは、
昨年の12月から、
社会福祉法人の事務のコンサル的なことを、
少しやっています。
以前やられていた仕事が、
役に立っていますね。
あとあのー、
空き家の息子という、
はっ?
何でしょうね?
これはあのー、
何Pか見せていただいたんですけど
変わった名前で、
面白いという人が、
何人かおってんですけど、
2008年に父が亡くなって、
2012年に母が亡くなって、
私たちは二俣瀬に居を構えてたんですけど
実家が開、常盤公園の、
湖の近くですけど、
そこに実家があって、
2人とも亡くなったので、
空き家になったわけですね
そこで、いろいろな
自分たちの持っている知識とか、
ノウハウとか、をホームページ上に掲載して、
みなさんと価値の交換みたいなことを、
できればいいね
タイトルも何にしようかな、と、
思ったんですけれど、
そのまんまですね、
空き家になったところの、
息子です、というところで(笑)、
息子って(笑)
これは面白いですね。
不思議な名前です。
事業をやっているわけでは、
ないのですか?
事業をやっています。
基本的には、
父や母に対していろんなことを、
やっていたんですね。
ビデオをダビングして、
見せてやったりとか。
パソコンの操作を、
見せてやったりとか。
いろんなことを、
やってたんですけど、
それらのことを、
少しずつホームページ上に、
出して、それも近隣の、
人だけじゃなくて、
遠隔地の人?
にも、そういうのを、
提供したりしています。
たとえば、
紙のテープで作るかご作りとか、
クラフトバンドっていうんですが、
そういうのも、
今、小羽山地区とか、
家内がやり取りさせていただいているんで、
その作り方をDVDにしたりとか、
材料を売ったりとか、
ということを、地元でもしてるんですけど、
全国的にやっても面白いかな?
と思って、インターネットを使って、
インターネットの広告をやっているんで、
全国にやったら、
北海道から、鹿児島までアクセスがあって
アクセスがあるんですか
お買い求めになられる方に、
お送りしたりとか、
と、いうこともしています。
はっきり言えるところがいいですね。
一閑張り?というのは・・・
これはですね。
あのー、歴史が古いんですけど、
飛来一閑という、
中国におられた方が、
ずいぶん昔、何百年の昔に、
こっちに来られて、
日本に。
当時、千利休っておられましたね
歴史上の人物で、
そこで、千利休の茶道具とかを扱う、
十人の職の方、
たとえば茶器とか扱うことができる
千家十職というんですが、
千家十職というのは、
千家の家に、
十の職の人が集まる
と書くんですが、
その中のひとつなんです。
一閑張りといって、
柿渋・・・
和紙を張って、柿渋を塗ってゆくもんなんです。
と、いうことで、画像みられたら、
わかると思うんですが、
空き家の息子と検索いただいたら、
わかると思います。
空き家の息子で調べていただく、
と、いいわけですね。
言われんかったけれど、
跡は継げとは言われんかったですけど、
住んではいます。
実家にお住まいなんですか?
二俣瀬と、
行ったり来たりしています。
お父様が、お亡くなりになったのは、
何時のことですか?
2008年12月です。
7年前?
ご病気で?
基本的には老衰に、
近いかもしれんのですけど、
脳梗塞の症状を、
呈してて、
それは今から15年ぐらい前だったんですけど、
それから体が不自由になって、
ちょっと重たくなったんで、
お医者さんから身障の認定を受けて、
それがOK許可が出るくらいに、
重たくなって、
最後は、要介護5がでるくらいに、
ほとんど動けない状態になったんですけれど、
あのー、
そういうことで、最期
1ヶ月ぐらいから、状態が、
悪くなって最期迎えた、
感じになりましたかね。
医療的な・・・、
在宅医療というのは・・・
もちろん先生には、
来てもらっていました。
数年前から・・・
3年から4年前には、
在宅に来てもらっていたと、
思います。
ても、
それで特段集中治療的なことが必要・・・
そんなことはなくて、
結構、淡々と暮らしていたんですが、
最期の1ヶ月というのは、
手が意思とは関係なく、
動いたりとか、
いろんなことが、
ありましたね。
で、
お母様の話が中心ですけれど、
じゃ、1曲、
最初に聞いていただきましょう。
リクエストいただきました、
松下奈緒、
エカテリーナのための協奏曲
これはちょうど、
父と母の介護がはじまったのは、
2006年から2012年なんですけど、
2006年当時、
たまたま東京に行くことがあって、
家内が行きたいといった、
展示会があったんてすよ
モスクワのエルミタージュ展ですかね
その時に、
カセット、ヘッドホンで聞くような、
解説がありますよね
それききながら、
そのバックにすごいいい曲が流れてて、
ちょっと涙ぐむような、
解説もすばらしかったんです。
その時流れた曲がどうしても、
欲しくて博物館終わった、
売店みたいなとこで、
曲を探したんです。
今はもう有名ですけど、
松下奈緒さんのファーストアルバムだったんですよ。
それがバックミュージックで、
かかってたんです。
いい曲だったんで、
われわれの介護がはじまった、
スタートの曲ということで、
選曲させていただきました。
じゃ、どうぞ。
在宅でいろいろやってたんですけど、
やりきれなくなって、
一旦、冒頭にもお話のあった、
宇部協立病院さんに、
入院させていただいたんです。
入院した後に、
1ヶ月くらいたって、
中々症状が安定はしたけれど、
それ以上にならないということで、
胃瘻するかどうか、
胃に管を通すかどうかという、
決断をすることがありまして、
その時に母がもともと12歳上の、
姉がいたんですが、
同じようにパーキンソンで、
胃瘻とかして15年くらい闘病生活の上で、
亡くなったんですけれど、
自分はもうそういう処置は、
せんでくれということで、
ずいぶん前から言われていたので、
せずに戻って1ヶ月と言われながら、
1ヶ月半、いろんな方に、
お世話になりながら、
最期の日を迎えたという、
形をとっています。
胃瘻することによって、
お姉さまは延命にはなってた?
なってたんだと、
思いますけど・・・
苦しいんですか
うーん、
苦しいように見えたんじゃないかな
私もよく母を連れて、
福岡なんですけど、
よくお見舞いに行ってたんですけど、
そういう処置そのものが、
嫌だと、思っていたんですよ
ちょうど私が15年前、
こっちに帰って来て、
特養に5年間居る時に、
あるとき家に、ふらったいったら、
仏壇に連れていかれて、
引き出しを開けてくれと言われて、
引き出しを開けたら、
そこに、
無用な処置はせんでくれとか、
過剰な治療をせんでくれ、というメモが、
出てきたんです。
これはいったい何?
といったら、
そういう思いがある、
テレビか何かで、
見たんじゃないか
今でいう生前の意思
リビングウィルとか言うんですかね
そういうことを、
当時私、そういう世界に居ながら、
意味がわからんで、
母の意向を受けた上で
施設の隣に隣接している病院の院長に、
お聞きしたことがあるんです。
個人の意見を尊重することだよ。
その時お母様は元気?
元気でした。
元気でしたけど、
12歳上の姉の見舞いに、
頻繁に行ってましたね。
その時にそういう思いが、
強くなっていたんかな、と。
お姉さまが、ひょっとしたら、
お母様に何か言っていたのかも、
しれないですね?
そこは、ちょっと私も、
わかりません。
じゃー、それをしないで、
家に帰りたいということですか
はい
その時はどうですか、
息子さんとして、
家で、というのは?
私はしょっちゅう母から、
そういう話を聞かされていたんで、
その意思の紙を見せられた後、
ちゅうちょなくそれを貫かんなと、
思っていたんですけど、
いざ、帰るとなるとですね、
やっぱり、宇部協立病院さんの方でも、
それこそ、そこの担当の先生から、
副院長の立石先生をはじめとして、
帰って来て対応する医師は、
ひらき内科てしたが、
訪問看護の白鳥さんとか、
当時常盤台病院、
いや宇部西になっていたかな?
そこのヘルパーさんとか、
いろんな方が全部、
もちろん福祉器具の業者さんとか、
全部一同に集まって、
10人ぐらいおっちゃたと思いますけど、
最期、1ヶ月と言われる中を、
母が望む形になればということで、
いろんな事やりました。
その1ヶ月というのは、
お母様はご存知だったのですか?
いや、言いませんでした。
薄々感じていたんじゃないか
と思いますね。
母はその昔の家族のビデオとか、
写真とか、
元々引揚者で、
新義州という所から、
引き揚げたんで、その時の、
当時の写真とか、
というのをテレビとか、
パソコンも数台置いてですね、
24時間それが映像が流れているように、
部屋をして、
それと、孫が生まれて、
半月ぐらいだったので、
ひ孫ですね、母から見たら、
壁いっぱいに孫の写真張ったりとかですね、
なんか楽しめたり、
昔のことを思い出させるようなものを、
用意して
夜中にふっと目が覚めて、
僕も時々見てたんですけど、
目がパチっと開いてですね。
ずっと部屋の景色を、
眺めてる、
映像が常に流れてますから
テレビもスライドショーにしたり、
テレビ見ない時は
いろんな事やってたんで、
常に思い出が駆け巡ってる状態に、
ひなが一日ベッドでずっと、
ご覧になってた?
はい
寝てることも多かったですし、
母は昔の音楽とか好きで
なんか急に思い立ったようにですね
昔の漫画の主題歌をききたいとか
風のフジ丸とか、
風のフジ丸少年忍者
そ、そうです。
歌えますけどね
それはいいんですけど
風のフジ丸♪少年忍者♪
藤沢製薬というの、
最期言いよったですね
その会社どうなったか知らんのですけど
それをICレコーダーにとって、
you tube でいっぱいやっているんですよね
それをCDにしてぐるぐる回したり、
「えりちえみ」を聞かしてくれ、
といったら、
最近はyou tubeで何でもあって、
全部の曲があるんですよね
あのー
在宅始める前っていうのは、
準備するものってあるんですか?
用意しなけりゃいけないものとか?
それは、
基本的に、こころの準備以外、
ないでしょうね。
他は全部みなさんが、
あの、ケアマネ―ジャーの方、
みなさんが、
中心としたいろんな方と、
お話することで、
いろんなことが、
出来るんじゃないですかね。
在宅医療がすごく、
だんだん注目されてきて、
ここ、確か宇部市を中心に、
ご近所福祉という、
集まりというか、
組織がありますね。
委託事業にして、
その中でも最近あのー
ご近所福祉の活動は、
貴い活動だなあと、
いつも思うんですけど、
その中でも、
看護師さんがね、
元、病院を取りまとめていたような、
看護師さんが、
お二人そういう活動をはじめられて、
居宅支援事業もされて、
在宅医療に密接な状態で、
今村くらしの相談室という所で、
野村さんと来嶋さんという、
やられてますけど・・・
3日前に不思議な手紙が来たんですよ
京都から手紙が来て
母は6人兄弟で一番上に、
長男がいたんですけど、
長男とすごく仲がよかったんですよね
ところが、
その長男は新義州当時、
戦争に行って戦死したんですよね
すごく仲がいい
長男だったらしいんですけど、
写真も一緒に写っているのが
いっぱいあるんですけど、
その長男が戦死する時には、
母以外には全員枕元に立った
というぐらい
すごい強烈な亡くなり方だったのかもしれません。
その、私から見ると、
おじなんですけど、
京都から手紙がきまして、
米軍のある兵隊さんが、
沖縄戦で写真を持って帰っていたらしいんです。
歳とって本人に返したい
お話があって
そういうとりまとめをする、
京都の方が、
母が亡くなる3日前に
えんえんと手紙と写真をつけて、
送って来ちゃたんです。
母に、それを、
読み聞かしたんです。
ただ、肩で呼吸してる
状態だったんで、
私が読んだら、
呼吸が乱れたりしました。
ですけど、
元気な時に、
沖縄で亡くなったとか
一切なかったんで、
ただ、南方で亡くなったという話
それも飛行機の操縦席の、
後ろ側で撃墜されたとか
離着陸のときに失敗したとか、
いろんな話があって、
はっきりしたことが
よくわからんかった
んです。
でも結局、
いろいろ調べたんですけど、
3日間
これは絶対に返事せんにゃいかん、
と、思って
写真照合したりしたんですが、
わからんまんまに、
私が思ったのは、
戦死した方は、確か
英霊といわれるそうなんです
英霊として迎えに来たんじゃないかな、と、
瞬間的に思いました。
手紙を読んだ瞬間に・・・
お母様が好きだった
ホフマンの舟歌
です。
さて、
お送りしています「家ってええちゃね」
この番組は、
山口県在宅医療提供体制構築事業の、
委託を受け、宇部協立病院の提供で、
お届けしております。
もし聞いてらっしゃる方々や、
医療・介護について、
不安に思う方がいらっしゃいましたら、
メール・ファックスで、
質問を受け付けておりますので、
どうぞお送りいただきたいと、
思います。
お母様、
クラシックがお好きだったんですか?
父が亡くなった後に、
急にクラシックが好き?
っていう話になって、
それまで聞いた記憶が
なかったんですけど、
大工さんで、
頑固者で、
父は浪花節が好きでしたから(笑)
全く趣味が違いますね(笑)